[コラム]英国人はなぜ医療費負担の増加を支持したか
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出展:みずほ情報総研ホームページ(http://www.mizuho-ir.co.jp/)「コラム/みずほ情報総研(株) 社会保障 藤森クラスター 藤森 克彦 2008年7月1日付」より
「それはお気の毒に。では10日後に来てくれ」――筆者がロンドンで暮らしていた99年冬に、妻が38度の熱を出した。地域で登録していた家庭医(※1)に診察を依頼しようと電話をしたら、この応答だった。「なぜ10日後か」と尋ねたら、「インフルエンザが流行して、患者の予約で一杯なのだ」と言う。筆者が「今熱で苦しんでいるのに、10日後では意味がない。だいたい10日もたったら風邪は治る」と述べたら、家庭医は「10日たって治る風邪なら医者に来る必要はない。家で暖かくして寝ているのが一番の治療だ」と語った。
99年冬は、「NHS(National Health Service、国民保健医療サービス)の危機」といった見出しが新聞の一面に躍り、英国のメディアは連日のようにNHSの窮状を報道していた。何より驚いたのは入院や手術を待たされる患者の数だ。医師不足、看護師不足などのために、入院待機患者は100万人を超えていた。
あれから10年余り。筆者は、英国出張のたびにNHSの状況を尋ねているが、最近は「良くなってきた」と答える英国人が多い。実際、入院待機患者数も、 53万人に減少した(2008年4月30日現在)。確かに問題も残されているが、10年前と比べれば明らかに改善している。
では、何がNHSを改善させたか。ブレア前政権では、医師・看護師の増員や、医療予算の配分を地域に委ねる権限委譲、医療の質の監視とその結果公表、などを行なってきた。これら改革への評価は時期尚早だが、医師・看護師の増員などが入院待機患者の減少につながったことは間違いない。
一方で英国政府は、これら改革のために、医療費支出を大幅に増加させた。99年度の医療費支出は413億ポンド(約8.3兆円、1ポンド=200円で換算)だったが、2007年度には871億ポンド(約17.4兆円)と2倍以上に増えた。そして支出増を賄う新たな財源として、2003年度から一定以上の所得をもつ被用者とその事業主、及び高利潤の自営業者を対象に、国民保険料を1%引き上げた。
こうした負担増には国民の反対がつきものだ。しかし驚いたことに、英国人は負担増を支持した。当時のサンデー・テレグラフ紙によれば、76%の有権者が保険料引き上げに賛成し、反対はわずか19%だった。他の世論調査も同様の傾向を示していた。
なぜ、英国人は負担増を支持したのか。第一に、NHSが危機に瀕していることを肌で感じたためであろう。多くの英国人は、原則無料で平等な医療を提供する NHSに強い愛着をもっている(※2)。しかし長年の医療費抑制策などの結果、入院待機患者が100万人を超える事態を招いた。このままではNHSは崩壊するとの危機感をもったのではないか。
第二に、フランス、ドイツなどの近隣諸国との比較から、NHSを救うには医療費増加が避けられないとの見方が広がった点だ。EU主要国をみても、100万人もの入院待機患者を抱えるのは英国だけだ。そして他国との大きな違いとして報道されたのは、英国のGDPに占める医療費支出が少なすぎる点である。「医療費の増加だけでNHSが改善するわけではないが、医療費の増加がなければ何も始まらない」といった有識者のコメントをよく見かけた。
そして英国政府は、医療改革への国民の支持を取り付けるために、2000年に医療改革の10カ年計画を示した。また02年には、外部の有識者に諮問して、今後20年間の医療需要などの変化とそれに要する費用について複数のシナリオを答申させた。こうした報告書も、国民の負担増への理解につながったと思われる。
翻って日本をみると、日本のGDPに占める総医療費は8.2%であり、米国(15.3%)、フランス(11.1%)、ドイツ(10.6%)、英国(8.4%)の中で最低水準となっている(※3、OECD Health Data 2008)。改善すべき点はあるにせよ、全体としては、日本は英国と同水準の低い医療費でありながら、よくやってきたと思う。しかし近年、「医療崩壊」と呼ばれる状況が報道され始めている。遅かれ早かれ、国民に負担増を求めざるをえないだろう。
一方で、多くの国民は平等な医療と「国民皆保険」を支持している。英国の事例が示すように、医療費の国際比較や給付と負担をセットにした議論によって、国民が負担増を受け入れる余地はあると思う。医療崩壊を招く前に、質の高い情報提供と議論が求められている。
(※1) 英国では、医療機関へのフリーアクセスが制限されており、救急医療を除き、地域住民は予め登録した家庭医(General Practitioner:GP)でしか診療を受けられない。病院で診療を受けるには、家庭医の紹介を必要とし、直接病院に行けないのが原則である。
(※2) 英国では、患者による窓口負担はなく、原則無料の医療となっている。財源は基本的に税金であるが、近年国民保険料からの充当が増えた。
(※3) 日本のみ2005年の値で、他国は2006年の値。
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