バルテュスの妻節子さん 「生々しいエロチシスムから神々しい人物表現へ」

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 東京都立美術館で19日から開催されている「バルテュス展」。その作品の一つ「夢見るテレーズ」では片足を立て挑発的なポーズの少女が描かれている。一方「目覚め(II)」での少女は初々しい。灰色っぽい絵の具の厚みのせいか壁画に描かれた天使のように見える。バルテュスの少女たちは多様だ。こうした表現の多面性と20世紀に具象画を描き続けた「孤高の画家」自身の多面性を軸に、同展開催直前にスイスでバルテュスの妻節子さんに語ってもらった。

 「夢見るテレーズ」の少女の足元で、猫が静かに餌を食べている。「目覚め(II)」の少女が手にする鳥のおもちゃ。それをやはり幼なそうな猫が大きく目を見開いて見つめる。バルテュスの絵の中の猫は、登場人物と呼応し合って、そこにいる。

 「こうした猫はバルテュスにとって何だったのか?」との問いに、「猫はバルテュス本人だったのではないでしょうか。テーブルの上のうちの猫を見て、(自分の前世は猫だと思っていたので)こんな風に気持ちよく寝そべっていたのを思い出す、なんて言うのですから」と節子・クロソフスカ・ド・ローラさん。そのあと一瞬おいて、「まあ、それぐらい深く猫を感じることができたということですよね」。

 この猫のエピソードはバルテュスの一つの側面、「バルテュスは描く対象と同一化できた」、ないしは「対象が持っている内なる光を感じることができた」ことを物語るものだ。ほかにどのような側面を秘めた画家だったのだろうか?

 swissinfo.ch : 「少女とは、絵の創作にインスピレーションを与えてくれる神聖な存在だった」とバルテュスは言っています。こうしたテーマとしての少女への興味をどう思いますか?

 節子・クロソフスカ : バルテュスが少女に興味があったというのは、まだ女になっていない、女としての意識がないそんなある束の間の、無垢で純粋な人間像に一番惹かれていたのだと思います。大人の女性になると自然に女性としての認識が備わってくる。でも少女というのは、自然に自由にいろんな恰好をするんですよ。よく観察すると。バルテュスの絵に出てくるように、机にうつ伏せになって本を読んだりするんですね。

 バルテュスは性のない(少女というものの)天使的な美しさに惹かれていた。でも彼は男性ですから、男性が見た少女の像に、しかもどんなポーズでもできるという自由さにも惹かれていたと思います。

 swissinfo.ch : しかし、天使的な少女を描くと思えば、挑発的なポーズの少女も描く。この両極的な表現がバルテュスの中でどう共存していたのか、興味の尽きないところです。

 節子・クロソフスカ : 挑発的なものは若いときの1940、50年代に多い。60年代や77年以降スイスに住む時代からは、壁画風になります。主題がどんなに挑発的なものでも、生々しいエロチシスムより、もっとある型にはまった儀式的ともいえる壁画風なものになっていった。

 17歳のときに母親の恋人の詩人リルケから、イタリア初期ルネサンスの壁画をデッサンするように勧められ、ピエロ・デラ・フランチェスカやマサッチョなどの壁画を模倣する時代がある。そのときから、この時代の表現が根底に存在するようになったのだと思います。

 そして、その表現を一生求めていた。画材でも、油絵っぽさをなくすカゼインを絵の具に混ぜ、画面に厚みをもたせていった。最終的には、神々しいような人物、動かない壁画的人物の表現に到達できたと思います。

 swissinfo.ch : 確かに、スイスで08年に開催された「バルテュス生誕100年展」で壁画的な表現、また人物が背景に溶け込み両者が一体化するような表現に出会い、感動しました。

 節子・クロソフスカ : 彼は必ず調和というか、和を求めていた。色と色。構図上の調和。そのため、必ず幾何学的な構図の下絵(左右から斜めに伸びる何本もの対角線が交差するもの)の上に人物を描き、その顔の向きをたどっていくとそれが幾何学的線と一致していた。従って構図上の緊張感が必ずあった。今は多分、誰もそんな線は引かないと思います。だから、自分のことを伝統を基盤にした「最後の画家だ」と言っていました。

 それと、できるだけ単純な、光と影の関係に興味を持っていました。陰影によるボリューム感です。

 swissinfo.ch : 下絵を描きそれほど周到に準備もするのに、ある映像の中で「絵が完成したときにどう感じるか」との娘の晴美さんの質問に、バルテュスは「完成していない。またやり直さなければと感じる」と答えています。

 節子・クロソフスカ : 彼は、自分の表現したいことに非常に忠実だった。だから、一枚の絵に5年かかったり、10年かかったり。何年か後にもう一度やり直すということもしていました。

 また、自分はアーティストではない。職人だとも言い続けていました。つまり、ルネサンスまでの画家は無名の職人で、美しいものを生み出していれば、それで満足していた。バルテュスは、結局はこの時代の職人のようにして、自分の表現を行いたかったのだと思います。

 swissinfo.ch : 風景画などには神聖と言えるほどの静寂が感じられます。しかし一方で、家の中に人が数人いたりする絵では、暴力性というか緊張感がある。その対比をどう思いますか。

 節子・クロソフスカ : バルテュスにとって、少女も果物や風景もある一つの媒体なのであって、根底においては同じ気持ちで扱っていたと思います。雲を描いたら雲になる。それは、ある一つの同化ということです。自我をなくして。題材が違っても同じアプローチをしていた。

 風景と花瓶があって、それぞれの対象が出すオーラが違う以上、表現されるものが違うというのは当然だと思います。そして、それが人物だと、緊張感とかバイオレンスが出ることが多い。動いているし。結局、人間とは、ストーリー性のある複雑な存在だから、そういう風に表現したのでしょう。

 一方、バルテュスの果物を見ていると、少女の場合のように、それぞれに対してたまらない魅力を感じます。結局、美しさというか、そういうものに彼は惹かれていた。対象が持っている内なる光を感じていたと思います。でも(絵を描く)仕事というのはそういうものですよね。多分。

 swissinfo.ch : 08年のスイスでの展覧会で、「性格の劇的なところ、一方で物に対する優しさ、慈しみ、人間の体を見つめる鋭さ、物の本質をつかむところ、すべてがそのまま絵となって表現された。バルテュスと絵は一体化していた」とおっしゃっていますが、これをもう一度説明して下さい。

 節子・クロソフスカ : バルテュスは、ポーランド系の一人のフランス人で男性であるといったことの前に、画家だった。絵を描くことで息をしていた。

 一つ例を挙げると、ローマ滞在時代に運転が好きでよくドライブをしていました。当時、ローマの郊外には遺跡があって羊飼いがいてという、何世紀も変わらない風景がありました。

 あるとき道を聞くと、一人の男の人が一生懸命説明してくれました。そうしたらバルテュスは、その人の顔が画家カラヴァッジョの絵に出てくる男性の顔にそっくりだ(筋肉の動きが特に)と思ったらしいんです。つまり、バルテュスは彼の顔を見てたんです。それで道はまったくわからない。で、もう一度聞いたんですね。ということは、一番大切なのは、普通の人にとっては道を聞くこと。でもバルテュスにとっては、カラヴァッジョ(の絵の人物)にその人の顔が似ていることの方がもっと大切だったのです。

 swissinfo.ch : 節子さんご自身も画家です。よく、アーティストのカップルでは夫が妻を競争相手にするなど、いろいろ聞きますが、そういうことはなくとてもやさしかったと・・・

 節子・クロソフスカ : バルテュスの素晴らしいところの一つは、根源にあるものを大切にすることでした。例えば、その人自身が持っている、一番美しいことをその人自身が見つけるようにさせることが上手だった。自分から言うのでなくあたかもその人自身が見つけたように。だからこうしなさいとかあまり言いませんでした。

 それと、日常生活ではとても面白い人でした。冗談をよく言って。皮肉も好きでした。

 『不思議の国のアリス』の話は、食事の会話によく出てきました。例えば「忘れるための授業」では、とてもよく学んだので先生にお支払いするのも忘れたというので終わっているんですが、そういうことを好んで話してくれました。

 swissinfo.ch : 画家としての日常生活は?

 節子・クロソフスカ : とにかく仕事のために生きていた人ですから、日常は、朝ご飯はゆっくりですが、そのあと一日中(家の前の)アトリエで仕事をしていました。北から入る自然光の中でしか仕事をしませんから、昼はサンドイッチを食べて仕事を続け、夕方4時ごろに家に戻ってくるのが常でした。それを毎日続けていました。仕事ができるときは。

 swissinfo.ch : 「物に対するやさしさ、慈しみ」という点で、何かエピソードを覚えていますか?

 節子・クロソフスカ : 思いやりのある人で、がさつにものをやることが多分なかったんでしょうね。このシャレーの入り口を私が自分で塗っていたときのことです。上の方に向かって塗るというのは手が疲れるし、木の節目もあるし。そこでサッと塗っていた。

 そこをバルテュスが通りかかって、「節目を塗るなら、自分も節目になって、筆も節目のようにちょっと丸くしてヒューと回して塗った方がいい」と言ったのを、今でもよく覚えています。この「節目になる」ということは、対象と同一化するという例でもあるし、また物に対するやさしさの表れでもあると思います。

 バルテュスの最晩年には、私が絵の具の調整を助けていたので、一番印象的だったのは、筆を画布に置くときの何とも言えないやさしさというか、赤子を抱く母親のような、そんな愛情を感じました。

 それぞれの筆のタッチを慈しんでいたように思います。画布の端のところでも、ないがしろにしない。丁寧でお茶の所作と同じような感じ。

 それは、見ていてハッとしたことでした。

 里信邦子,swissinfo.ch

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